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高天神城(1) ~ 遠江を制す

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。

 平成25年2月23日、お城仲間のMさんと高天神城に行ってきました。

 静岡県掛川市上土方嶺向にあります。

 「高天神を制する者は、遠江を制す」と言われ、血塗られた争奪の巷となった有名なお城ですので大抵の地図には記載してあります。

高天神東峰
 高天神城は、東峰と西峰に分かれています。まずは東峰から・・・

 この図面では、往時無かったであろう遊歩道を無視して描いています。

 Pは駐車場です。駐車場からA郭と到着櫓の郭に挟撃される谷間を進んでいくと・・・

186_20130310141930.jpg
 追手門があります。

*戦国初期の1510年、駿河守護今川氏親は、遠江の斯波氏を下し、駿河・遠江2国の盟主となります。その際、高天神城周辺は今川家重臣の福島氏へ与えられたようで、高天神城に福島氏が在城したとの記録があります。

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 追手門から少し上がった場所には、到着櫓跡があります。

 追手門前で停滞する攻城兵を、櫓の上から射撃ずる防御構想です。

*今川家当主氏親は、重臣福島氏の娘を妻としておりましたが、後に京より公家の娘(寿桂尼)を正室に迎え、福島氏の娘を側室へ格下げしてしまいます。

 福島氏の娘には男子(玄広恵探)が授かりました。この子は今川家当主の男子でありますから当然、家督を継ぐ立場にあったのですが、側室の子に格下げされた為、仏門に入れられてしまいました。
 1526年、今川氏親が没すると寿桂尼の長男氏輝が家督を継ぎます。

 しかし、1536年、4月7日、氏輝とその弟が急死。

 寿桂尼は、自分の子、五男の義元を擁立し、福島一族は玄広恵探を擁立、双方一歩も引かず、ここに、家督をめぐって今川家を2分する内乱「花倉の乱」が勃発します。

188_20130310142243.jpg
 Bのスペースです。方向転換に手間取る攻城兵を上から攻撃する為のスペースであると思います。

*5月25日、福島一族は花倉城、方ノ上城、久能山城に挙兵します。

 高天神城からも応援の兵が向かったと思われます。

 福島一族は、義元派の本拠「駿府館」を急襲するも、攻めきれず撤退します。

 義元派の軍師太源崇俘雪斎は、幕府より義元の家督を認めるお墨付きを得、甲斐の武田、伊豆の北条を味方につけるなど、多数派工作に成功します。
 
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 三の丸です。

*福島一族は孤立し、やがて久能山城、方ノ上城が落城。
 
 6月10日、花倉城は落城し、玄広恵探は自刃。福島一族は駿河、遠江から一掃されてしまいます。

 高天神城は、小笠原氏へ与えられました。

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 三の丸内部から小口を撮影しました。

 「高天神城第2話・姉川の七本槍」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「静岡の城」
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Comment
Re: 実は
丸馬出様 御来訪ありがとうございます。

 結果を見れば、そうですよね。

 掛川を持っていれば、諏訪原も落ちなかったでしょうし・・

 当時の信玄の戦略としては・・・

 家康はとりあえず、スグには動けぬほどにたたいておけば
良い。そうしたうえで信長に大打撃を与えれば、家康は降る
と読んでいたのでしょう。
実は
いよいよ高天神城ですねえ。楽しみです。
ところで、個人的には武田さんの滅亡した原因は
信玄さんが、三方が原で勝った後に
掛川城を落として天竜川の東側を領有しなかった
ことも一因かなあとおもっています。
歴史にifはつきものですが(笑

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