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関宿城(2) ~ 3度の攻防戦

 関宿城の最終話です。

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 西側から見た本丸の塁壁です。

*関宿城では、戦国期3度にわたる攻防戦が展開されました。

 小田原から北上する北条氏は、古河公方の権利を利用し、やがて組み敷き、傀儡化していきました。

 1560年、上杉謙信は関東を席巻します。謙信は謙信派の古河公方を擁立しました。梁田氏は謙信派の公方を支えることとしました。

 ここに北条氏 VS 梁田氏&謙信派公方&上杉謙信の戦いの火ぶたが切って落とされます。

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 本丸の塁壁を南西方向から撮影しました。横矢攻撃を可能とする折りがつけられているのが見て取れます。

*1563年、北条氏は武州松山城と岩槻城を回復すると、勢いに乗じて関宿城を攻めますが、関宿城の守りは固く、撤退します。これが第一次関宿合戦です。

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 本丸の入口には城址碑があります。バックに写っているのは堤防です。

*その後、上杉謙信の勢力は後退を続け、東上州を残すのみとなってしまいました。孤立した梁田氏は北条と和睦の交渉に入りましたが、条件で折り合いがつかず。和議はなかなか整いませんでした。

 1568年、北条氏は脅しの為に出兵しました。しかし、北条氏と同盟を組んでいた武田信玄が駿河を攻める事態となり、兵を引くこととなったのでした。これが第二次関宿合戦です。

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 本丸です。堤防で破壊される前は相当な広さがあったと推察されます。奥の堤防上に関宿城博物館の模擬天守が見えます。

*北条氏と武田信玄は敵対することとなりました。

 北条氏は、昨日の敵上杉謙信と和睦し、信玄に対抗することとしました。

 古河公方は、謙信&北条派に属しましたが、梁田晴助は武田信玄や佐竹氏と結び、古河公方の家臣から、独自の道を歩み始めます。

GEDC0937.jpg
 模擬天守のアップです。

*やがて北条氏は、武田家との同盟を復活させ、謙信の勢力を駆逐しはじめます。

 そのうえで北条氏政は関宿城を攻囲します。関東古戦録によると攻囲兵は3万にのぼったということです。戦線は膠着し、やがて、北条氏政と、梁田氏を支援する佐竹氏との間で講和となり、梁田氏は関宿城を出て、水海城へ撤退しました。これが第3次関宿合戦、1574年のことでした。

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 関宿城博物館の入口です。

*関宿城は北条氏の支城となりました。

 1590年、北条氏は、豊臣秀吉により攻め滅ぼされました。

 関東には徳川家康が入り、関宿城には家康配下の松平氏や小笠原氏などが入り、幕末まで存続しました。

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 模擬天守最上階から撮影した、本丸の遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「東京・神奈川・千葉の城」
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Comment
Re: 近世城郭
丸馬出様 御来訪ありがとうございます。

 徳川幕府関連のお城は、維新の際、旧権力の象徴として
破壊された事例が多いですね。

 戦国期末から江戸時代初期までに廃止城になった城は、
残っている例が多いと思います。

 この日は山城を攻める予定だったのですが、雨天と言う
ことで、方針を転換し、平城をめぐりました。

> 開発が進んでいるからか
> 幕府のお膝元だったからか
> 関東地方の近世城郭は
> 破壊されているお城が
> 多いようですねえ
近世城郭
開発が進んでいるからか
幕府のお膝元だったからか
関東地方の近世城郭は
破壊されているお城が
多いようですねえ
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