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楽厳寺城(2) ~ 楽厳寺雅方在城


 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成24年10月6日、お城仲間のMさんと楽厳寺城に行ってまいりました。

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 長野県小諸市大久保にあります。4年ぶり3回目の訪問です。

 4年前よりは、遺構観察力や、イメージ図描写力が若干向上しているのではないかと思い、追加レポートをさせて頂きます。

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 布引温泉こもろからクネクネ道を登っていくと右側にこの看板がありますので、右折してください。

 細いクネクネ道を延々と登り、台地上に出た地点が楽厳寺城です。

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 イメージ図です。右側の食い違い小口は自動車道の設置により破壊されていますが、日本城郭体系掲載の古図面を参考に復元描写しています。

 4年前は、二郭と三郭の堀のラインを直線的にとらえていましたが、地形図に落とし込んだところ若干中央部が張り出して、弧を描いていることが判りました。

 二郭への木橋は戦闘時には破棄されてしまいます。

 攻城兵は三郭への食い違い小口を進むしかありません。

 食い違い小口では、帯郭と三郭からの二方向からの攻撃にサラサレ、方向転換を強いられます。

 三郭にはいると正面に、三日月堀に守られた銃座の様な保塁があり、ここからの射撃にさらされます。

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 三郭の三日月堀です。 

*戦国時代のこの地の武将楽厳寺雅方は、釈尊寺を焼かれて武田信玄に降伏しました。その時点での楽厳寺雅方の防御態勢は断崖に囲まれた釈尊寺を駐屯地とし、その背後の北尾根を詰城としていたと思われます。
 推測ですが、武田勢は西側の台地上から詰城へ攻め降りたのではないでしょうか。

 武田信玄に降った楽厳寺雅方は楽厳寺城を築いたとされます。つまり、背後の台地上から攻撃されて落城したので、背後の台地べりに楽厳寺城を築いたのだと思われます。

 その頃は村上義清が未だ強い勢力を持っていたので、村上勢に攻め落とされぬよう、普請には武田の築城技術者も加わったことでしょう。武田流とされる三日月堀があるのはその為ではないでしょうか。

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 帯郭の土塁に登ってみました。右側が水堀です。

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 二郭の小口から「A」を撮影しました。ロッジが建っている場所です。

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 二郭の小口から撮影した二郭西側の堀です。小口の場所が張り出して、堀が屈曲しているのが判るでしょうか。技巧的な縄張りです。

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 本郭の小口です。

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 小口を入った先は、半枡形状の窪みがあります。

pC0361.jpg
 千曲川の対岸から見た楽厳寺城の遠景でお別れです。

 車で到達できますし、技巧的かつ、個性的な遺構がそれなりに残存していますので、縄張りマニアの皆様にお薦めです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「長野の城」
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