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尾浦城(3) ~ 大宝寺氏断絶

 尾浦城の最終回です。

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 本丸と二ノ丸の間の西側には小さな郭があります。奥が二の丸の塁壁です。

*大宝寺義興(だいほうじよしおき)は、後ろ盾がないと庄内を維持できないと判断し、上杉景勝家臣、本庄繁長の二男千勝丸を養子に迎えます。

 しかし、越後では新発田重家が反乱をおこし、庄内にまで手が回らなくなりました。これを好機と見た最上義光は、庄内へ侵攻し、尾浦城は落城。大宝寺義興は自害したとも最上領へ抑留されたとも言われています。養子の千勝丸は命からがら実家へ戻りました。1587年のことでした。

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 二ノ丸から木橋を渡って本丸を目指します。

*同年10月、上杉景勝は「流浪の武将・藤田信吉」の活躍もあり新発田重家の乱を平定します。

 翌1578年、上杉景勝家臣、本庄繁家は息子千勝丸に、大宝寺義勝(だいほうじよしかつ)を名乗らせ、大宝寺家再興の名目で庄内地方へ進撃し、最上勢力を駆逐しました。

 庄内地方は上杉景勝の領地となり、家臣の大宝寺義勝が統治する形となりました。

 最上義光はこれを、惣無事令に反するとして、豊臣秀吉に訴えました。

 上杉景勝は秀吉が天下人となるずっと前から盟約を結び、秀吉のために何度も兵を出していました。最上義光には秀吉に対して何の実績もありませんでした。上杉景勝が本庄繁家、大宝寺義勝親子を謹慎させると、秀吉は上杉による庄内領有を認めたのでした。

 尾浦城には島津淡路が配されました。

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 「嗚呼羽州太守武藤氏之碑」です。大宝寺氏は武藤氏を名乗ったこともあり、呼称に混乱が見られます。

*1590年、太閤検地が実施されると、庄内地方では一揆が発生します。一揆勢は庄内各地の城たちを瞬く間に落とし、残る城は尾浦城のみとなりました。

「小国夢幻悪屋形聞書」によると・・・

 その時一揆には、首将なし、これにより平賀入道禅可(元武士)を頼む。平賀老年、ことに僧侶の身なり。平賀は「家族には景勝公のお供もおり、承知致し難し」と申すも、一揆どもの申しけるは、「御同心あれば庄内の屋形として仰ぎ奉るべし、承諾なくば刺殺し申さん」と。平賀、辞するに言葉無く、一揆の首将として尾浦の城を囲む。

 この時の一揆勢は3千であったということです。

 城将島津淡路は良く守り、一揆勢は攻めあぐねました。

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*尾浦城危うしの報を受けた上杉景勝は大軍を率いて庄内へ進軍します。

上杉軍は一揆勢の味方の援軍のふりをして近づき、一揆勢と6~700メートルの至近距離に至り、急に景勝ご紋の旗指物を上げ攻撃を開始しました。

 それを見た尾浦城から島津勢も討ってでたため、一揆勢は挟み撃ちとなり、潰走しました。平賀は捉えられ、火あぶりにされたということです。平賀はどうすればよかったのでしょうか。理不尽ですね。

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 尾浦城主武藤氏の由来を記した石碑もあります。

*1600年、関ヶ原の戦いで上杉景勝は西軍についたため、庄内を没収されます。庄内は最上義光に与えられました。

 最上氏は尾浦城を重要視せず。尾浦城はやがて廃城となったということです。

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 本丸です。
 
*また、大宝寺義勝はほとぼりが冷めた頃赦免されました。しかし大宝寺義勝は、実父の本庄家を継いだ為、大宝寺家は断絶となりました。

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 東側からの遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「東北の城」
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