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津川城(3) ~ 藤田信吉居城

 津川城の第3話です。

*蒲生氏郷は40歳で亡くなりました。

 嫡男の蒲生秀行はその時12歳でした。家内を上手くまとめることが出来ず。

 領地を削られ、宇都宮へ移されました。

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 「二の丸」の表示です。

 左奥が本丸の塁壁で、その右のへこみが堀切です。

*蒲生家の後には、上杉景勝が120万石で配置されました。

 上杉景勝は、津川城へ「流浪の武将・藤田信吉」を配置しました。

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 私は、藤田信吉マニアです。

 私は東北で生まれましたが、後に埼玉県は所沢市に移り、早25年、埼玉県は第二の故郷です。

 しかし、埼玉県西部の武将で江戸時代まで生き残った武将は?

 滝の城大石氏没落。川越城扇谷上杉氏没落。毛呂城毛呂氏没落。松山城上田氏没落。

 そのようなさびしい状況の中、秩父天神山城・花園城の藤田氏は、藤田信吉が西方藩の藩祖となるかたちで、江戸時代の初期まで生き延びたのです。

 藤田信吉は、西埼玉の英雄なのであります。

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 金上稲荷から見下ろした「二の丸」です。

 大変広い空間で、実質的兵力集結地点ですね。

*藤田信吉の父は、関東管領山内上杉氏の重臣でしたが、北条氏に屈服し、婿殿を押しつけられます。藤田信吉は藤田家の主流から追いやられてしまいます。

 上杉謙信亡きあとの権力争い「御館の乱」の際は、北条傘下として上野沼田城を守っていましたが、武田勝頼配下の真田昌幸の誘いに乗り武田配下へ。武田家が滅ぶと織田家配下へ。織田信長が本能寺の変で没すると上杉景勝へと主を変えました。

 詳しくお知りになりたい方は、当サイトの下記をご覧下さい。

 埼玉の城 ・天神山城 ・花園城 ・用土城
 群馬の城 ・沼須城
 栃木の城 ・二条城
 史跡などの部屋 ・栃木実相寺

GEDC3040.jpg
 現地解説版には、藤田の「ふ」の字も載っていませんね。地元の皆さまにとっては、名も知らぬよそ者でしょうから仕方の無いことです。

*上杉景勝が会津へ移るとすぐ、豊臣秀吉が没しました。

 この時を待ち望んでいた徳川家康は、天下簒奪のココロザシヲ露わにします。

 豊臣政権存続を策ス石田三成は、徳川家康と対立します。

 上杉景勝は、石田三成との連携で、ある野望を胸に抱きます。

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 二ノ丸から更に登っていくと、石垣の表示があります。

*徳川軍を、上杉領白河口へ引き込み、背後を佐竹に突かせ、包囲、殲滅する。

 徳川家康が上杉との決戦を避け、西へ向かうなら、まず、最上氏を屈服させる。そうすれば様子見の秋田諸将は、雪崩を打って上杉の傘下へ馳せ参じる。東北の半分以上が上杉派となれば、伊達家も同調せざるを得ない。東北10万の軍勢で関東へ侵攻し、養父上杉謙信の悲願であった関東再圧を果たす。

 上杉景勝の野望は燃え上がるのでした。

 三池純正著「北の関ヶ原合戦」の記述では・・・

 徳川家康が西へ向かうと、はしごを外された伊達正宗は、上杉景勝に和睦を求めました。上杉氏の兵力が上回っていたからです。

 直江兼続は和睦の条件として「景勝が関東に出馬するにあたり、伊達方は政宗が同行するか、もしくは家老が五千、3千の兵を立て」と提示する書状が残っているとのことです。

GEDC3045.jpg
 石垣のアップです。出丸の石垣ですね。

*しかし、時流を読みながら、究極の選択で、主家を変え続け、生き残ってきた藤田信吉には、主君景勝の野望は危ういものと感じられたのでした・・・

 「津川城第4話・藤田信吉逃走」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」
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