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節黒城(2) ~ 南朝の苦境

 節黒城の第2話です。

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 「三郭」に入りました。奥が「四郭」です。(郭名は勝手につけています)

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 本郭から、二郭、「お」、「か」に至る段々構造は近くの大井田城に類似しており、同じ南北朝期に創設されたと見て取れます。

*十日町市観光協会ホームページによると

 南北朝時代の正平7年(1352)に築城、新田一族の拠点になったと伝えられています。
 その際急いで築かれたため、とりでの木が素材のままで、節が黒々と残っていたことから「節黒城」と名付けられたといわれています。・・・とのことです。

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 「四郭」に入りました。

*1352年といえば・・・

 南北朝の争いは北朝優位で推移していました。ところが北朝派は、足利尊氏と、弟の足利直義とが敵対します。苦境に陥った足利尊氏は何と! 南朝に降伏!

 各地で逼塞していた南朝派は息を吹き返します・・・の年ですね。

 越後の新田系南朝派が息を吹き返し、北朝に対抗するため節黒城を急造したのだと推察いたします。

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 「四郭」には、横堀がめぐらされています。このあたりは戦国時代の追加普請でしょう。

*足利尊氏は、弟直義を死に追い込み苦境を脱すると忽ち本性を現し、南朝をないがしろにした為、両者は再び対立関係へ。

 南朝は、新田一族へ、足利尊氏追悼の詔を発し、新田義貞の子「新田義宗」は兵を挙げ、鎌倉を占拠します。

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 「三郭」から見た、「あ」郭です。奥が「本郭」の塁壁です。

*足利尊氏は大軍を召集すると、新田軍を圧倒し、敗れた新田義宗は越後に逃れました。

 大井田一族が新田義宗を匿ったと思われます。

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「三郭」から見た「五郭」です。派生する尾根尾根に郭を設けていることが判ります。

*その後も、越後の大田井一族は南朝派として奮闘を続けていましたが、1368年、関東管領に就任し、越後の支配者にも任じられた上杉憲顕の大軍の前に壊滅的打撃を受け、その支配に屈するようになったのでした。

 「節黒城第3話・暗躍・越後の関ヶ原」へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「新潟の城」
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