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高津戸城(3) ~ 塁壁主体防御

 高津戸城の第3話です。

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 「E」郭東側の堀切です。

*前話では、「関東古戦録」の里見兄弟伝説を紹介しました。

 「日本城郭体系」も「群馬の古城」も、里見兄弟伝説を採用しています。

 一方、大間々町史では、里見兄弟伝説に疑問を投げかけています。

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*私も大間々町史の視点に賛成いたします。

(1)「関東古戦録」は、江戸時代に創作された小説である。

(2)「関東古戦録」では、上杉謙信が小田原を包囲する以前にも一度越山していると記すなど、他の資料と整合性がつかない記述が少なくない。

(3)里見兄弟伝説は、「関東古戦録」以外に記されていない。

(4)「関東古戦録」では、里見兄弟が1572年に高津戸城を修築し、1578年に挙兵したことになっているが、領内に勝手に築城する家臣以外の者を、6年間も放置しておく、領主などいようはずがない。

(5)「関東古戦録」では、浪人140名で城の修築をしたとあるが、140名では本丸周辺を守るだけで精一杯であり、現在残る1000名以上で守る規模の高津戸城の遺構と整合性がつかない。

 高津戸城を築城した山田氏は小土豪であり、本丸を削平するのが関の山であったはずです。

 高い塁壁は、戦国期の大勢力による普請を物語ってもおります。里見兄弟以外が戦国期に高津戸城を大増築したと考えるのが、自然であります。

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 腰郭には井戸跡と思われる窪みが柵で囲んであります。

*1566年、武田信玄が箕輪城を攻略、上杉謙信の関東での退勢が決定的となったため、由良氏は謙信の配下を離れ、北条氏に従いました。

 謙信は沼田から利根川沿いに前橋へ進出する道を信玄に脅かされたため、沼田から根利経由で、五覧田、神梅、高津戸、桐生、唐沢山へと向かうこととなりました。

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 本丸の周辺には腰郭がまわっています。

*1573年、由良氏が桐生氏を攻め滅ぼします。(桐生氏が謙信寄りであった為と思われる)

 1574年3月、上杉謙信が進出。五覧田の砦、神梅城、膳城、山上城、女渕城を攻略、次いで由良氏の大田金山城を囲むが落とせませんでした。(桐生氏を滅ぼされたことへの、仕返しであったと思われる)

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 本丸への登り口です。

*同年9月、上杉謙信の撤退後、由良氏は諸城を奪回し、五覧田根小屋(五覧田の砦)では沼田勢300を打ち取り、黒川谷を回復しました。

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 本丸には神社が建立されています。

*同年10月、謙信が進出し、谷山城と仁田山城を落城させました。(記録にはないが両城への通り道である五覧田の砦も謙信の手に落ちたと思われる。)

 1578年、上杉謙信死去。(上州における上杉勢力は壊滅し、北条氏は、由良氏による黒川谷の領有を認めた。)

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*大間々町史では、1574年3月と10月の同地侵攻の過程で、謙信が渡良瀬川を挟んで由良氏と対峙するために、高津戸城を大増築したのではないかと推察しています。私も同感です。

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 謙信も眺めたであろう、「高津戸城からの、大田金山城方面の景色」でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「群馬の城」
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