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超図解武蔵松山城(7) ~ 前田利家と上杉景勝

 松山城の最終話です。

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 本曲輪です。

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 西側から見たイメージ図です。この方向は市ノ川が天然の堀をなして囲んでいますので、敵が攻め登る心配がないため、単純な作りとなっています。

 「え」の方向から「なだらか」方面へ攻城兵が迂回すると面倒なので「竪掘」をこれでもか!と配置して、迂回を防いでいます。

 今から40年前、小学生だった私は「吉見百穴」に遊びに行きこの川でザリガニ捕りをして遊びました、その時の流路と現在の流路は違います。

 昔の方がより、松山城を巻き込むように流れていました。

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 右が本曲輪の塁壁、中央が堀、左が「S」笹曲輪の塁壁です。

*1590年、豊臣秀吉の命令により、前田利家、上杉景勝、真田昌幸等の北国勢が碓氷峠を越えて、北条の領国に乱入します。

 4月16日、松山城落城。

 4月17日頃、宮崎城、国峰城、新堀城が落城。

 4月22日、松井田城落城、4月24日、箕輪城落城。

 これらの記録から、城攻めは手分けして行われたようです。

GEDC2142.jpg
 笹曲輪です。

*松山城包囲の図に、前田利家と上杉景勝の名があるので、両名が松山城包囲に参加していたと推察されます。

 松山城に籠った人数が2500余人でも、実質的戦闘要員は200余人でしたし、城主の上田憲定は小田原城に詰めていて不在でしたし、松山城は圧倒的な兵力差を受け、戦闘無く開城したと思われます。

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 現在残る松山城の主要部は、堀の面積が圧倒的で、郭の面積は狭く、2500余人の収容は厳しかった思われます。

 図で示したラインの「総構え」があったと推察されています。

GEDC2145.jpg
 天然の堀をなす市ノ川です。

*北条氏滅亡後、松山城には松平家広が入るも、1601年には廃城となりました。

 戦争に特化された多すぎる堀達は、平時の統治と相反するものがあったことでしょう。

GEDC2146.jpg
 北側の断崖の下には、近世に岩をクリヌイテ造られた「岩窟ホテル」があります。

 私が小学生の時は入場料を取って解放していましたが、今は倒壊の危険があるため閉鎖されています。

GEDC2147.jpg
 岩窟ホテル向かいの売店には、松山城のイメージ図が掲載されていました。

 私より上手い・・・

GEDC2137.jpg
 本曲輪からの、往時の城下町方面の景色でお別れです。

 戦国の英雄たちが争奪を演じた城ですし、踏査しやすいようになっていますので。

 城好きを自認する人は必ず、訪問しましょう!

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「埼玉の城」
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Comment
Re: やはりまだ終われない
リュウ様 御来訪ありがとうございます。

 杉山城や腰越城は、縄張りは素晴らしいのですが戦歴が不明です。

 一方、松山城は縄張りが素晴らしい上に、大スターが集結!

 埼玉の誇りっす!
やはりまだ終われない
松山城最高です!こんなに凝った城だったなんて!このクラスになると関係者も著名人が増えますし幾らでも読めちゃいます。わかりやすい写真も完璧っす!ありがとうございました。
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