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超図解武蔵松山城(4) ~ 武田信玄参陣

 松山城の第4話です。

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 さて、北側から攻めても難しく、東側から尾根筋を攻めても難しく・・・

 南側から攻めてたらどうなるか? 南側にやってきました。

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 上の写真は「い」から西側の土塁を撮影したものです。

 「い」から城内に入り北側に進んでも、「う」から西へ進んでも、堀底を徘徊させられるだけで、郭への進入路はありません。郭からの射撃にさらされ続ける為、長期の生存は不可能です。

 郭につながる道は「H」「I」「J」「L」と進む道のみです。

 「H」は、「J」からの射撃の制圧下にあります。

 「I」は、「M」と「三曲輪」からの射撃の制圧下にあります。

 「J」から「L」への道は、「P」と「L」からの射撃の制圧下にあります。

 「L」は、「P」と「N」からの射撃に制圧下にあります。

 この、「常に2方向からの射撃の制圧を計算されつくされた高低差ある屈曲路」をどうにか突破し、三曲輪に到達しても、三郭全体が「N」からの射撃の制圧下にある上、二曲輪への進入路は無く、攻める為には、一旦堀底へ降りなければならないのです。

 全国的にみても土の城で、ここまでの技巧的な縄張りを持つ城はなかなかないと思います。

GEDC2114.jpg
 「H」への登り口です。

*「甲陽軍鑑」には、北条氏康の使者が甲府を訪れ、下記の口上を述べたと記されています。

 武蔵国松山城を大田三楽斎が支配下に置き、その城には上杉憲正の庶子を置いています。

 自分(北条)は江戸城にて近隣の侍を味方につけています。

 氏康が松山城を攻めたなら、大田三楽斎が救援に駆けつけます。それだけなら良いのですが、越後の謙信がやってくると厄介です。

 そこで信玄公が御出馬下さり、松山城が氏康の手に入りますれば武蔵国はおおかた治まりましょう。是非とも信玄公の御出馬を請う次第です。

GEDC2116.jpg
 藪で判りにくいのですが、「J」の郭から南側を見おろした写真です。左側に堀が食い込んでいます。

 「J」の郭は角馬出しの形状をしています。

*信玄への援軍要請の際、その対価として、「西上州切り取り次第」が提示され、合意が形成されたと推察いたします。

 1561年、信玄は甲府を出立し、西上州の諸城を制圧しつつ、東へ軍をすすめ、翌1562年に松山城を包囲する北条勢と合流しました。

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 「K」から見上げた「二曲輪」です。「二曲輪」からの射撃の制圧下にあることが実感できます。

*「関東古戦録」によると・・・

 北条軍は、金堀職人を集め、山の崖から城内に掘り込み、櫓を二つ崩した。

 武田軍は、竹を集め、竹束を作り、これを盾にして、攻めよせたとあります。

GEDC2118.jpg
 三曲輪です。

*武田軍は松山城の水の手を切ったっため、城内はひどい苦しみとなった。

 その頃、安房の里見義弘と、越後の上杉謙信が援軍に駆けつけるとのうわさが広がりました。

 「松山城第5話 ~ 上杉謙信越山」へ続く・・・

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Comment
Re: またまたお邪魔してます
リュウ様 御来訪ありがとうございます。

 松山城は、主要な郭同志をつなぐ土橋はありませんから、郭を捨てる時は、堀底へ駆け下り、堀底を攻め手がいない方向へ駆け逃げるしかありませんね。

 仲間を見捨てても、主要郭を守ろうとする、防御専心さに時代の厳しさを感じますね。

 この遺構の技巧性と、防御性の高さ、そして残存度は、関東が日本中に誇れる存在ですね。
またまたお邪魔してます
私もこの造りでは、守備兵は生きたければ持ち場をまもりきるしかない見捨て型と感じました。
ここまで残っている遺構を見ない手はないですね!
写真完璧ですね!
Re: つり橋
丸馬出し様 御来訪ありがとうございます。

 上野箕輪城では、発掘調査の結果、江戸時代に橋脚設置の為
堀底に盛り土をしたと、認定したそうです。

 松山城も、堀底の盛り上がりは、江戸時代のものかも知れま
せんね~。

> 一般的なおしろなら木橋だと思うのですが
> 技術レベルが高いお城は
> つり橋だった可能性もありますよね~。
> その方が瞬時に撤去できますので
> (あくまで、妄想ですが(笑))
つり橋
一般的なおしろなら木橋だと思うのですが
技術レベルが高いお城は
つり橋だった可能性もありますよね~。
その方が瞬時に撤去できますので
(あくまで、妄想ですが(笑))
Re: 木橋
丸馬出し様 御来訪ありがとうございます。

 平時には木橋を設けていたと推察されています。
 郭の突出している部分が横矢かかりとなる位置に
木橋を設けていたようです。現在も木橋の橋脚設置
の為と思われる若干の盛り上がりが確認できます。

 木橋は戦時には撤去されたと考えられています。

 丸馬出しさんのおっしゃる通り、堀底道は出撃路
兼撤退路であったと多くの解説書に書いてあります。

 出撃は堀底道へ、攻城兵を誘い込む為のおとりと
して意図され、実行されたと思います。

> 本郭、2、3、4郭の主要な
> 郭の間には木橋があったと思われるのですが、
> いかがおもわれますか。
>
> 橋がないと、守備兵の退路が敵の進入路と
> 重なる可能性(堀底道ですが)があるのでは
> とおもうのですが、とにかく遮断の
> 守備重視だったかもしれませんね
木橋
本郭、2、3、4郭の主要な
郭の間には木橋があったと思われるのですが、
いかがおもわれますか。

橋がないと、守備兵の退路が敵の進入路と
重なる可能性(堀底道ですが)があるのでは
とおもうのですが、とにかく遮断の
守備重視だったかもしれませんね
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 松山城の第4話です。 さて、北側から攻めても難しく、東側から尾根筋を攻めても難しく・・・ 南側から攻めてたらどうなるか? 南側にやってきました。 上の写真は「い」から西側の土塁を撮影したものです。 「い」から城内に入り北側に進んでも、「う」から西へ進...
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