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超図解武蔵松山城(1) ~ 謙信・信玄・氏康争奪!

 みなさんこんにちわ。

 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。

 平成24年5月13日、松山城に行ってきました。

松山アク

 埼玉県埼玉県比企郡吉見町北吉見にあります。

*松山城は、戦国時代、上杉謙信、武田信玄、北条氏康の三大英傑が覇を競った場所として有名です。

GEDC2085.jpg
 吉見百穴を検索すると、場所がわかります。松山城見学者は吉見百穴の駐車場を利用するよう、掲示されています。

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 東から見た、松山城のイメージ図です。嵐山史跡の博物館配布資料掲載の図面から起こしました。長年、現地掲載図面に疑問を持っていたのですが、配布資料掲載図面を見て、ようやく縄張りが腑に落ちました。

 例によって、縄張りとして強調したい部分をデフォルメして描いています。縮尺等決して正確ではないことをご承知置きください。

*松山城の創始に関しては諸説がありますが、確かな資料が残るのは、室町時代鎌倉公方と、関東管領上杉氏がトラブルとなった「上杉禅秀の乱」(1416年)の際のものです。「松山城主上田上野介討死」との記載が鎌倉大草紙にあります。

 松山城主の上田氏は、関東管領上杉氏の側で戦いました。

GEDC2084.jpg
 北から見た「五」の郭の塁壁です。

*その後も公方家と管領家のいさかいは続きます。

 1461年、古河公方足利成氏は、管領側についた松山城を攻め落としています。

 関東の中原に位置する松山城は常に争奪の的となっています。

GEDC2086.jpg
 東側から「A」の郭を撮影しました。奥側の微妙な盛り上がりです。

*管領側が優位になると、今度は管領側が分裂して覇を競うようになります。

 1510年、山内上杉氏の軍勢が、扇谷上杉氏側についた松山城へ攻めよせています。

 山内上杉氏、扇谷上杉氏、古河公方が三つ巴の戦いを続けているなかで、漁夫の利よろしく関東を蚕食し始めたのが小田原北条氏でした。

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 北側から見たイメージ図です。

 「A」の郭は、攻城兵が根小屋小口へせまるのをけん制する位置にあります。

 北側の郭たちの防御を考えますと、まず、奥側南側が高くなって郭が配置されていること、次に手前北側は断崖であり、進退が不可能であるということです。

 攻城兵が「葱郭」に侵入してもC,B,Eの郭からの射撃の制圧範囲にあり、撤退しようにも、北側は断崖で飛び降りれば死んでしまいますので、狭い根小屋小口から撤退するしかないのですが、四曲輪と三曲輪から守兵が出撃して、根小屋小口を封鎖すれば、攻城兵は袋の中の鼠となってしまいます。

 一見、大した守りでは無いように感じてしまうのですが、なかなかどうして・・・ 

 攻城兵はこちら方面に突出することは控えることとなりましょう。

GEDC2088.jpg
 根小屋小口です。

 藪で判りにくいですが、左側は土塁により防御され、右側から竪掘が食い込んで、通路は狭く限定されています。

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 葱郭に入りました。左側に「B」郭の塁壁が見えます。

 「松山城第2話 ~ 和歌合戦」へ続く・・・

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