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堀之内城山のおまけ ~ 鵜殿淵

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成24年4月15日、お城仲間のМさんと徳川家康撤退路実感ツアーを行いました。

 三方ヶ原の敗戦の翌年、若き徳川家康は信玄になびいた天野氏を滅ぼそうと無謀な侵攻を決行し、大損害を喫して敗走します。その敗走ルート、瑞雲院、若身城山、堀之内城山、三倉城、天方城を当時の街道「塩の道」に沿って踏査してみました。

 その過程で偶然「鵜殿淵」を発見しました。

GEDC1857.jpg
 往時は塩を運ぶ為の道が整備ざれ、塩の道と呼ばれていたそうです。

 遠江側では秋葉街道とも呼ばれていました。

 現在の国道は川沿いに整備されていますが、往時の街道は尾根筋をたどっていたようです。

GEDC1845.jpg
 現在も尾根筋に集落や畑が残り、往時を偲ばせてくれます。

 戦前まで、塩の道沿いに旅館が点在していたと、地元の方に教わりました。

GEDC1844.jpg
 徳川家康の「天野領侵攻ルート」と「撤退ルート」は塩の道を使用したと考えられています。

GEDC1842.jpg
 三倉城のあった三倉集落から県道63号を1キロほど北上した場所に馬のモニュメントを発見しました行ってみましょう!

GEDC1843.jpg
 徳川家の武将「鵜殿藤五郎」がこの地で戦死したため、「鵜殿淵」と呼ばれるようになったとのことです。

 この看板によると、気田(犬居城の北方)にあった真田昌幸が徳川軍を追撃したとありますが、私の手元にある「校正三河後風土記」には、真田昌幸の名前が出てきません。

 本レポートでは、「校正三河後風土記」の記述を基にした解説をいたします。

s001.jpg
 この時点では、二俣城、只来城、光明城、犬居城は、武田&天野氏が押さえていました。

 「校正三河後風土記」によると、光明城から追撃の兵が出たとされています。

 地図で光明城から、東へ伸びる尾根筋をたどっていくと、塩の道と合流する地点があり、その地点で撤退する徳川軍と、追撃する天野軍の交戦があったものと推察されます。

 天野軍が通過したと推察される尾根筋には、戦前まで街道があり、茶屋が置かれるなど、人の往来が盛んであったと、地元の方が教えて下さいました。

 合流地点から、「鵜殿淵」までは急激な下りとなっております。

 天野軍は下り坂を下りながら敗走する、徳川軍を常に高所から追い落としたわけですから、天野軍は圧倒的に優位だったことが推察されます。

 家康の有力武将「鵜殿藤五郎」が戦死した「鵜殿淵」と、家康が一時足を停めたとされる、三倉集落とは1キロしか離れておらず、家康が三倉集落の庄屋の家に匿われて難を逃れたとする言い伝えも、あながち作り話とも言えないのではと、現地に立って感じました。

 この時、家康が捕縛されていたら、時代は違うものとなっていたことでしょう。

GEDC1840.jpg
 家康がその日のうちに逃げ込んだ、「天方城」からの風景でお別れです。

 ・・・と、終わろうと思いましたが、心にわだかまりが残ります。

 鵜殿淵の解説版の出所は三河物語と記されています。

 徳川氏の記録です。真田昌幸の兄は長篠合戦で戦死していますので、真田昌幸がこの地へ来ていてもおかしくはありません。

 真田昌幸が気田から徳川軍を追撃したとすれば、塩の道に沿って南下したと思われます。

 この場合も、塩の道が尾根筋から、川沿いへ下る場所が徳川の戦死者が多く出た場所となることでしょう。

 真田昌幸といえば、第一次上田合戦と、第二次上田合戦で、天下の徳川軍を翻弄した名将です。

 第一次上田合戦と、第二次上田合戦は、世間に知られていて隠蔽しようがありません。

 しかし、この天野攻め撤退戦は世間に知られていないので・・・

 真田昌幸に三度も敗走したという不名誉を隠ぺいすべく「校正三河後風土記」では、真田昌幸の活躍を「校正」・・・つまり・・・削除した可能性も考えられますね。

 このあたりは、縄張りオタクの私の範疇外ですので、古文書に詳しい方々の分析を待ちたいと思います。

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Comment
昌幸さん
丸馬出し様 御来訪ありがとうございます。

 昌幸さんの戦術のルーツは長篠の戦いにある
との記事は私も拝見しました。
 昌幸さんは天正壬午の乱では、碓氷峠を制圧
して北条の糧道を断っていますし、その後の小
県制圧戦も見事なものでした。
 上野でも沼田城を手に入れると、利根川沿い
に南下し、前橋城近くまで迫っています。
 上田城攻防戦は有名ですが、岩櫃城や沼田城
も北条の大軍を引き受け、堅守していますので
「小よく大を制す」戦術は当時も知れ渡ってい
たことと推察します。
なるほど
いつも楽しく拝見させていただいております。
昌幸さんの戦術のルーツは長篠の戦にある
という記事を読んだことがあるのですが
当時のことですから、どうやって情報を入手したのか
不思議だったのですが、やっと納得できました。
武蔵様のご推測は的を得ているのでは
ないでしょうか。
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 みなさん、こんにちは。 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。 平成24年4月15日、お城仲間のМさんと徳川家康撤退路実感ツアーを行いました。 三方ヶ原の敗戦の翌年、若き徳川家康は信玄になびいた天野氏を滅ぼそうと無謀な侵攻を決行し、大損害を喫して...
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