FC2ブログ
HOME   »  中世城郭  »  遠江小山城(2) ~ 馬場美濃守縄張り

遠江小山城(2) ~ 馬場美濃守縄張り

 小山城の第2話です。

GEDC1539.jpg
 イメージ図「あ」から、「か」へ復元木橋がかけられています。

r001_20120331084412.jpg
 しかし、それでは攻城兵が直線的に三ノ郭まで侵入出来てしまいます。

 往時は図のように、「え」からの射撃にさらされながら、「う」まで迂回させられるようになっていたと思われます。

GEDC1541.jpg
 左が「え」で、右が「う」です。

*さて、武田信玄は北条の領国を荒らしまわり、北条を圧迫します。

 北条氏は本土防衛の為、駿河へ駐屯させていた兵力を本国へ帰還させます。

GEDC1544.jpg
 「う」のアップです。

*駿河が手薄になったのを見計らい、信玄は怒涛の進撃を開始します。

 1571年2月、信玄は遠江へ侵攻し、小山城を奪取、縄張りの名手馬場美濃守に小山城の改修と、滝堺城の築城を命じます。

 三重の三日月堀が普請され、小山城が現在の姿となったのはこの時期であったとされています。

GEDC1545.jpg

 三ノ郭から、ニノ郭へ入っていきます。

*同年12月、北条氏は駿河を放棄する屈服的条件で、信玄と和睦し、信玄は後顧の憂いを取り払い、西上への道を進むこととなります。

GEDC1547.jpg
 ニノ郭に入ると、スグに三日月堀がせまってきます。ニノ郭は全域、丸馬出しからの射撃の制圧下にあります。

*翌1572年、12月、武田信玄は三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合を撃破。小山城は前線から離れた平和な城となったのですが・・・

GEDC1550.jpg
 本郭から見た「丸馬出し」です。

*翌1573年4月、武田信玄が亡くなり、時代は大きな転換点を迎えるのでした。

 大熊朝秀奮戦へ続く・・・

 ホームページ 「土の城への衝動」 > 「静岡の城」
スポンサーサイト



Comment
有難うございます。
らんまる様 御来訪ありがとうございます。

 私の専門性の低さを、フォローしてくださり感謝いたします。

 記録は勝者が書きかえる。もしくは記述者が書きかえることを前提に読み込まないといけないですよね。

 最近、新たな資料の発見で、多くの定説が覆されて来ていますね。

 第4次川中島合戦で武田親族衆が多く討ち死にしたのは、信濃先方衆が日和見を決めて、参戦しなかったからである。日和見の恥を記録に残さぬため、キツツキの戦法で、武田本隊と上杉本体が偶然遭遇してしまったように甲陽軍艦が記述されたとの説があります。
Re: 五本松城
お師匠 御来訪ありがとうございます。

 記事を拝見しました。
 それなりに残っているのですね。
 表示が私のツボでした。

 あのあたりは、お師匠と私の目の前に熊が降ってきた地域ではありませんか?

 くれぐれも、安全なお城ライフを!

 私は連休前後に私生活が多忙となる予定で、それが落ち着いてから、信濃へ
侵攻したいと思っております。
五本松城
佐久市の山城めぐりに凝っています。
今回は五本松城を見つけてきました。この山城を紹介しているHPは少ないと思います。
 内山城と志賀城との間に位置する高い山の尾根にあります。志賀城の麓にある雲興寺から南方を眺めると、本丸が遠方からでも良く分かります。
 内山氏の城であった五本松城を笠原氏が攻め取ったと伝えられています。
ご迷惑をおかけしました
室賀氏の経歴で長文なコメントを送信したものの、果たしてそういう回答で的を得たものか懐疑的に思っておりました。
加沢記は真田の上州における苦悩や小県統一に関する第三者的な優れた考察を記しているものの、室賀氏の去就に関しては真田寄りの記述で公平性には疑問が残ります。
(資料としては古文書と一致するものが多く一級だと思っています)

まだまだ修行の身ですね(笑)
Trackback
小山城の第2話です。イメージ図「あ」から、「か」へ復元木橋がかけられています。しかし、それでは攻城的に三ノ郭まで侵入出来てしまいます。往時は図のように、「え」からの射撃にさらされながら、「う」まで迂回させられるようになっていたと思われます。左が「え」で?...
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

武蔵の五遁

Author:武蔵の五遁
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード