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大築城(5) ~ 大堀切

 大築城の第5話です。

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 モロドノ郭から、散策路を東に向かうと、長大な竪堀に遭遇します。

 東側の小築山から攻める敵が、モロドノ郭方面へ迂回するのを防ぐ為の普請であると思われます。

r007.jpg
 東側から見たイメージ図を作成しました。

*10数年前に登ったとき、何か釈然としない印象が残りました。

 一般的な城郭の場合、中心部に迫るに従い、段々と防備が強化され、堀は深く、塁壁は高くなっていくのですが、大築城はその逆なのです。
 大堀切の規模に感動して、先に進んでいくと、塁壁はどんどんと低くなっていくのです。
 本郭脇の「半枡形」の段差などは、踏み台昇降のようです。
 コース料理で途中まで良かったのに、最後にカップラーメンが出てきたような・・・
 なんとも割り切れない感覚に陥るのです。

 これは大築城が二段階に分かれて、普請されたからではないかと思います。

GEDC1254.jpg
 竪掘りを過ぎて、しばらく進むと、この表示はありますので、表示に従って左折しましょう。

 まっすぐ進むと、小築山へ行ってしまいます。

*以下、私的妄想を・・・

 大築城の南側は毛呂氏の領地で、北側は上田氏の領地でした。

 毛呂氏も上田氏も、扇谷上杉氏の配下でした。

 しかし、1520年、北条氏綱が扇谷上杉氏の江戸城を奪取し、扇谷上杉氏が劣勢に立たされると。毛呂氏は北条氏へ鞍替えします。
 上田氏は扇谷上杉陣営に残りましたので、上田領と毛呂領は敵対関係となりました。

 そこで上田氏は、毛呂氏への警戒のため、国境の山上に大築城を築いたのではないでしょうか。その時の規模は本郭と二郭とモロドノ郭程度であったことでしょう。

GEDC1259.jpg
 北側から見た大堀切です。左が馬出し、右が四郭、堀切の奥には土橋があります。

*1545年には、川越の夜戦で扇谷上杉氏が滅亡すると、上田氏も北条の傘下となりました。このことにより、上田領も毛呂領も同じ北条の傘下となり、大築城は戦略上の価値を失い、放棄されたと思われます。

GEDC1256.jpg
 馬出しから見上げた、四郭の塁壁です。

*大築城が再び、活用されたのが、天正の頃(1573年~92年)とされています。
 戦国大名と宗教との権益争いは各地で行われました。徳川家康VS一向宗、織田信長VS本願寺。そして関東では、北条氏VS慈光寺でした。

GEDC1262.jpg
 四郭の小口です。

*北条氏は上田朝直に慈光寺攻めを命じました。

 上田朝直は、南から慈光寺を見下ろせる要害、大築城の再興を決め、二郭に枡形を設け、三郭と、四郭を増設したのではないでしょうか。

GEDC1265.jpg
 四郭から、三郭の塁壁を見上げました。「B」の削り残し土塁のラインが斜めになっています。ここらへんが大築城が「つくりかけ」と評価される所以でしょう。

*本郭と二郭は塁壁が低く、堀がありません。本郭の小口はどれも僅かな窪みで、天正期の小口とは思えません。それに対して、三郭と四郭は塁壁が高く、幅の広い堀で守られています。両者は大きく異なります。

 前者が弓矢の戦国初期、後者が鉄砲導入の戦国後期の普請であると考えれば、つじつまがあいます。

 大築城は二段階に分かれて普請されたのではないか?

 以上、歴史素人、縄張りオタクの妄想でした。

 枡形残存へ続く・・・

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