FC2ブログ
HOME   »  中世城郭  »  三ノ倉城 ~ 北条勢攻囲

三ノ倉城 ~ 北条勢攻囲

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成24年1月1日、お城仲間のMさんと三ノ倉城に行って参りました。

三ノ倉アク

 群馬県高崎市倉淵町三ノ倉にあります。

GEDC0939.jpg

 名刹の全透院背後の山がそれにあたります。赤い門が目印です。

 向かって左側に段々の墓地があり、段々を上りきったあたりの尾根筋から登りました。

008_20120119140756.jpg

 北側から見たイメージ図です。矢印の方向から登りました。

 実質単郭の小塁です。

GEDC0941.jpg
 尾根筋にある小さな郭です。

*お城仲間の「箕輪初心」さんのブログによると、木部氏、浦野氏、大戸氏と支配者が変遷しているそうです。

GEDC0942.jpg

 本郭の北側の帯郭です。このように遺構はかなり曖昧です。

*大戸氏は箕輪城の長野氏に従っていましたが、武田信玄配下の真田幸隆が吾妻に侵攻すると、いち早く幸隆に従いました。

GEDC0945.jpg

 本郭に入りました。西から東方向を撮影しました。数十人籠もるのがやっとの狭さです。

*天正10年、武田家が滅び、織田信長が本能寺の変に倒れると、北条氏は上野制圧を企図し、真田氏配下の大戸氏に攻めかかります。北条勢は五千であったとされます。

009_20120119141906.jpg

 今度は南側からのイメージ図を作成しました。

*北条勢と言っても、主将が北条重臣の富永氏ですが、実質的にこき使われたのが小幡氏、内藤氏です。小幡氏も内藤氏も、真田氏も、大戸氏も、数ヶ月前までは同じ武田家の一員だったのに・・・

 双方、切ないものがあったでしょう。

GEDC0947.jpg

 南側の帯郭です。先人の図面にそう描かれておりましたので、疑問を持ちながらも踏襲いたしました。

*大戸真楽斎は、三ノ倉城で抗戦しますが、多勢に無勢でどうすることもできず、三ノ倉城を捨てて、手子丸城へ退却します。三ノ倉城は落城したわけです。

GEDC0948.jpg

 「あ」の郭です。

*北条勢は手子丸城へ追撃、大戸真楽斎は城を枕に最期を遂げてしまいます。

 大戸真楽斎も、北条へ降参していれば死なずにすんだものを・・・

 武士の意地か? 真田氏への忠義か? 真田へ出した人質を助けたかったのか?

 今となっては誰も真相を知ることはできません。

GEDC0952_20120119143540.jpg

 東側から見た塁壁です。二段になってるのが見て取れるでしょうか?

*天正18年に北条が滅び、徳川家康が関東に入ると、三ノ倉城には松平氏が五千石で配されました。

 山上の砦は狭すぎるため、全透院を接収し、周囲に堀をめぐらせて、体裁を整えたのだと推察します。

 ホームページ 「土の城への衝動」
 > 「群馬の城」
スポンサーサイト



Comment
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

武蔵の五遁

Author:武蔵の五遁
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード