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権田城(3) ~ 北条の兵站基地

 権田城の最終回です。

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 左が本郭の塁壁で、中央が堀です。

*さて、解説版には永禄年間大戸但馬守の城であったと記されています。

 大戸真楽斎の舎弟で領地は権田村とその周辺となると、大戸但馬守の動員可能兵力は数十名であったと思われます。

 大戸氏の他の城、三ノ倉城や萩生城は、数十名で守る規模です。堀幅は2メートルくらいです。

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 本郭の向こう側に「外郭?」と書いているのは、本郭の北方約100メートルの場所に、堀跡ともとれる地形が存在するためです。もし、外郭があったのなら、2000人以上駐屯可能だったでしょう。

*一方、現状の権田城はどうでしょう?

 堀幅は5~6メートルあり、横堀の長さは100メートル以上、駐屯可能兵力は外郭を含めなくとも1000以上です。

 大戸但馬の数十名では本郭を守るのがやっとですし、これだけの規模の大工事を行う財力も無かったはずです。

GEDC0997.jpg

 二ノ郭の塁壁です。

*天正10年、武田家が滅び、本能寺の変に織田信長が倒れると、北条氏は上野制圧に乗り出します。真田氏の配下の大戸氏がはじめの標的になりました。

 北条は5000の兵を動員し、大戸氏の三ノ倉城を攻め立てます。大戸氏は数日支えましたが多勢に無勢で、三ノ倉城を捨て、本城である手子丸城に籠もります。

 権田城は三ノ倉城と手子丸城の間にあるので、放棄されたことになります。

GEDC0998.jpg

 段郭が続きます。

*北条氏は手子丸城を落とし、真田の重要拠点岩櫃城を視野に入れます。

 手子丸城に兵糧を送ったり、交代の兵士を送ったりする、兵站基地が必要になりました。

 北条氏は「大戸但馬守の数十人で守る権田城」を、接収し、大拡幅工事を施し、千の兵が駐屯できる兵站基地を造ったと推察します。

GEDC1002.jpg

 100メートルを越す横堀は良く残っていますが、藪で写真にすると・・・

*記録により相違はあるのですが、真田方の記録では真田が手子丸城を一時期奪回したとされています。

 それが事実であれば、権田城は対真田の最前線となったわけです。

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 細長い五ノ郭です。

*豊臣秀吉による、北条征伐が天正18年ですから。北条による新権田城の存続は僅か8年であったことになります。

GEDC1004_20120119132922.jpg

 五ノ郭の先端方向です。

*現地外勢力による短期的な使用であったっ為、新権田城についての記録は現地に残らなかったのでしょう。

GEDC0995.jpg

 権田城から見た街道方面の景色でお別れです。

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