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上野松山城(1) ~ 縄張りの功者

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成24年1月1日、お城仲間のMさんと上野松山城に行って参りました。
 群馬県高崎市下室田にあります。

 上野松山城は、上田氏が普請したと言われています。
 上田氏と言われてもピンとこない方も多いことでしょう。
 武蔵松山城、武蔵腰越城といった、技巧性の高い城を築城又は改修しているのが上田氏です。つまり、縄張りの功者ともいうべき存在が上田氏であります。

 上野松山城の名前も、武蔵松山城からとったとのことです。
 縄張りの功者はこの地でいかなる腕をふるったのでしょうか?

GEDC0912.jpg
 墓地の間を登っていきます。中央の道は往時竪堀だったようです。

007_20120116150227.jpg
 先ほどの写真は「あ」の竪堀のものです。

*天正10年、武田氏が滅び、織田信長が本能寺の変に倒れると、北条氏は上野制圧に乗り出します。北上州には真田昌幸がおり、真田さえ追い出せば、北条による上野制圧が完成します。

 北条氏は利根川沿いに北上し真田の沼田城を、烏川添いに北上し真田の岩櫃城を制圧する作戦を立てました。

 そして、岩櫃攻めの拠点を、室田に定め、同地に5千の兵を動員しました。室田には鷹留城がありましたが、造りが古い上、大軍を収容することはできませんでした。

 そこで大軍を収容可能な新城の築城を決意し、普請を配下の上田氏に命じたのでした。

GEDC0913.jpg
 「い」方面から見た三郭です。この郭だけで、数百の兵士が駐屯できます。

 上田氏に課された使命は、5千の兵士が安心して駐屯可能な場所を早急に確保することにありました。何せ相手はゲリラ戦に長けた真田氏です。そこいらへんの平地に寝泊まりしていたら、どんな目にあうことか。

GEDC0915.jpg
 「い」の裏側の郭です。

*縄張りの功者が技巧的な全体像を描く時間は与えられなかったと推察します。ひたすら削平地を造ることが求められたことでしょう。

GEDC0916.jpg
 イメージ図の裏側方面には段郭が延々と続いていて、これらの段郭に大軍を駐屯させたと思われます。

GEDC0914.jpg
 「い」の郭と、二の郭の間にある通路です。

 真田兵が正面に現れた際、裏の段郭駐屯地から、正面方向の三郭へ、兵士が移動するための通路であったと思われます。

 縄張りの功者でありながら、単純な段郭ばかり構築せざるを得なかった上田氏が、その、縄張りへのこだわりを、ささやかに体現させた遺構が本郭の塁壁に存在しました。

 功者の重ね枡形へ続く・・・

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