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木曽福島城(3) ~ 木曽氏没落

 木曽福島城の最終話です。

GEDC0487.jpg

 本郭に到達しました。

*小笠原貞慶は、福島城下に攻め入り、木曽義昌は福島城へ籠城しました。

 小笠原貞慶は、木曽氏の居館である上之段城を焼き払ったものの、福島城の堅固さを見て、撤退したとのことです。

GEDC0488.jpg

 解説版があります。ここでも木曽義康の築城となっていますね。

fuku.jpg

*木曽義昌は、妻籠城でも徳川の菅沼定利を撃退し、秀吉方としての立場を保ちました。

 その後の1585年、徳川方の真田昌幸が秀吉に寝返り、更に、徳川方の石川数正と小笠原貞慶が秀吉に寝返り、不利を悟った家康は、翌1586年に上洛し、秀吉に臣下の礼をとったのでした。

 すると秀吉は、木曽、小笠原、真田を家康の配下へ戻したのでした。木曽義昌の心中は複雑なものがあったことでしょう。

GEDC0490.jpg

 「い」の郭から尾根筋を見下ろしました。

 この先にも郭が続いているとのことでしたが、標高差が激しいため、軟弱な私は踏査を見合わせました。

*1590年に、秀吉が北条氏を滅ぼすと、徳川氏は関東へ移封され、木曽氏は徳川配下となっていたため、千葉へ移されました。

GEDC0491.jpg

 「い」から「あ」にかけて、帯郭が続いています。

*1595年、木曽義昌は没し、木曽義利が跡を継ぎます。

GEDC0493.jpg

 「あ」の郭のあたりで、視線を感じたので、その方向を撮影しましたところ、この様な画像となり、何度も撮影を試みましたが、この様な写真が量産されてしまいました。

*1600年、関ヶ原の合戦の年ですね。木曽義利は、所領を没収され、木曽氏は没落してしまいます。

 義利に粗暴なふるまいがあったとする話もありますが、武田から織田へ寝返り、徳川から豊臣へ寝返った木曽氏に、家康は好印象を持っていなかったというのが、真相ではないでしょうか?

GEDC0522.jpg

 上之段城から見た、福島城の遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」
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Comment
Re: 木曽義利の末裔です
井元様 御来訪ありがとうございます。

 木曽氏の後裔の皆様は九州に移られていたのですね。勉強になります。

 さて、私が木曽町の教育委員会で写しをとらせて頂いた資料によると・・・

 旭将軍木曽義仲公と、その後、鎌倉後期から安土桃山時代まで木曽谷を支配
した木曽氏とは、同一の系譜であるかは定かではないと記されていました。

 お持ちの家系図ではどうなっているのでしょうか。興味がわきますね。

> はじめまして
> 私は、大分県大分市在住の井元と言います。
> 実は、ここ大分での井元の末裔は木曽義利である事が判明しています。正式な家系図もあり清和源氏の流れをくむ血筋にほんの少しだけ優越感を覚えております。
>
> 義利のその後は、長崎県壱岐を経由し平戸の地にて井元性に改性しています。その子孫が大分へ移住し現在に至っております。
木曽義利の末裔です
はじめまして
私は、大分県大分市在住の井元と言います。
実は、ここ大分での井元の末裔は木曽義利である事が判明しています。正式な家系図もあり清和源氏の流れをくむ血筋にほんの少しだけ優越感を覚えております。

義利のその後は、長崎県壱岐を経由し平戸の地にて井元性に改性しています。その子孫が大分へ移住し現在に至っております。
Re:  丸馬出し
丸馬出し様 ご来訪有り難うございます。

 信濃もそうですが、上野もそうですよね。
 最後に北条へ与したが為に、没落した名族が
数知れません。

 境目で生き残るのには相当な手腕が必要だっ
たのでしょうね。

 それにしても家康は恨みを決して忘れず、数
テンポ置いてから、恨みを晴らしますね。

 怖い人です・・・
 丸馬出し
寝返りを繰り返さないと生き残れない状況が
信濃は特に強かった地域だと思います。
(大勢力間の境目の地域だからでしょうか)
それでも生き残った、
小笠原氏、真田氏、諏訪氏(諏訪大社のご利益)
は処世術に長けていたのでしょうね。
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