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一郷山城(2) ~ 信玄の前に落城

 一郷山城の最終話です。

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 「う」から「え」に上る土塁の一部は石積みで固められています。

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 四角い本郭の手前に馬出し様の郭を配しています。(現状は消滅)

 これはこの地方共通の縄張りですね。麻場城、長根城、新堀城も同様の縄張りが見れます。

 重ねて申し訳ありません「南」は「北」の間違いです。

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 本郭南側の斜面です。

 歩き回った結果、折り坂小口状の通路を感じ取ったので、イメージ図に載せてみました。

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 東側から見上げた模擬天守です。

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 駐車場には解説版があります。以下解説版に沿って・・・

*1438年、関東管領上杉憲実は、鎌倉公方足利持氏と争い、鎌倉を退き、平井城に拠った。

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 登ってみましょう!

*平井城西方の守りとして、新堀城と共に築かれた。一郷山城は山上にあることから、烽火台としての任務が主であったことであろう。

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 平井城方面の展望です。

*1563年2月、西上州攻略を図る武田信玄は、平井城攻略の緒戦として、一郷山城を攻めたと解説版にありますが・・・

 1552年に関東管領上杉憲正は、平井城を捨てて越後へ逃げのび、長尾氏(後年の上杉謙信)の助けで、1560年に平井城を奪回しますが、長尾氏は、「当時の主要街道から外れた上に、守りにくい」平井城を破却していますので、「平井城攻略の諸戦」というのは誤りでありましょう。

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 模擬天守から見た牛伏山山頂です。

*1563年2月に、武田信玄は北条氏政とともに武州松山城を囲み、落城させています。一郷山城攻略は松山城攻めの、行きがけの駄賃だったのかも知れません。

 解説版には、武田軍が下から攻め上がったと記されていますが、牛伏山から攻めた方が容易ですので、信玄ならそうしたのではないかと・・・ そもそも武田の大軍の前に烽火台仕様の一郷山城が抵抗したとは考えにくく、おそらく自落ではなかったかと想像いたします。

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 長根城から見上げた、一郷山城の遠景でお別れです。

 ホームページ 「土の城への衝動」
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Comment
Re: 家臣団に
リュウ様 御来訪ありがとうございます。

 おっしゃるとおり、遺構破壊が残念ですね。

 吉井周辺のお城の解説版は不正確なものが多いので要注意です。

 保守管理の方がしょっちゅういらしてますね。

 雇用に城跡が貢献しているのであれば、良しとしたいですね。
家臣団に
なるほど〜 このような山で緊急の色も決めておけば、近隣農兵までいつでも出陣準備を伝えられるかも。確かに信玄公の大軍で攻め取る城ではないですよね。
何より意味のない天守による遺構破壊が残念!地域振興課的な所の仕業?建物維持管理保守で雇用確保ならまだ…おっとこりゃ余計でした。
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