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葛尾城(2) ~ 北信の雄

 葛尾城の第2話です。

 葛尾城は、北信の雄「村上義清」の城として有名です。

 村上氏の出自には、様々な説があり、歴史素人の私には何とも言えません。

 室町幕府の成立にあたり、軍功があり、鎌倉時代には執権北条家が治めていた塩田庄を与えられたことは確かなようです。

 村上義清の代になり、小県の海野一族を追い落とし、その勢力範囲を大きく広げました。

 武田信玄が信濃侵攻を開始してからも、抵抗を続けました。上田原合戦と砥石崩れは信玄の敗北で、村上義清の勝利であると世間一般に言われていますが、各種資料を読みあさると・・・
 上田原で信玄は、戦場を維持した上に、別動隊を真田郷に派遣してこれを制圧している、つまり、領地を増やしているのだから信玄の勝利ということになります。
 砥石崩れでは、信玄本隊は村上勢と槍を合わせることなく、安全に撤収してして、被害が出たのはシンガリだけです。信玄配下の真田幸隆は真田郷に居座り続けていますので。これも信玄の大敗とは言えないと思われます。

 そのような流れの中で真田幸隆に支城の砥石城を乗っ取られるなど、村上義清は次第に追い詰められ、家臣の多くが信玄に内通するにおよび、1553年葛尾城を自落し、越後の上杉謙信を頼ります。

007_20110619121719.jpg

 厳しい尾根筋を登っていくと、途中、熊蜂の集団に出会いました。このルートはもっと寒い時期を選んだほうがよさそうです。

 やがて、比丘尼石の表示が・・・

008_20110619124131.jpg

 葛尾城落城の際、村上義清の奥方が姫城から逃れ、郷里の住民の永遠の幸せを祈願し、化石となったと伝えられる・・・とのことです。

 村上義清の奥方については、千曲川を舟に乗ってわたり、(御姫様は銭などという不浄のものは持っていなかったため)船頭にお礼としてコウガイ(櫛の一種か?)を渡したとする伝説もありますね。

甲越信戦録では、村上義清が討ち死にしたとの誤報を信じ、千曲川に身を投げたとされています。

 ここに比丘尼石があるということは・・・

 姫城→泉平→岩崎城というルートが無ければこの伝説は存在しえない。つまり、そのルートはあり、里人も認識していた!

s1.jpg

 全体の概念図です。姫城、泉平、岩崎城は、ほぼ標高差が無く、連動した防御が可能な配置となっていることがおわかりいただけると思います。

 葛尾城が北からの敵を迎え撃つ際には、この連動が重要な役割を果たす予定だったと推察いたします。

009_20110619125529.jpg

 比丘尼石から更に登っていくと、岩盤むき出しの様な場所が・・・

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 フェンスの右側は、ほぼ垂直の断崖です。

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 岩場を抜けると、尾根の右わきに、帯郭が・・・

 写真にすると何も無い斜面に見えますが、ご同行頂いたMさんも、帯郭だと・・・

 二段になっているんですけど・・

 迂回強制防御岩崎城へ続く・・・

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Comment
Re: 連コメ失礼します
らんまる様。ご来訪有り難うございます。
 北側の防御については、信玄奪取直後、天正壬午等を想定していました。
 村上義清期ですね。であれば、遺構の状態とも合致しますね。
 岩崎城の詰めの城が、葛尾城ですか。
 葛尾城は確かに、平地との比高がありすぎですし、狭すぎですから、本城
として機能したことには疑問が強いですよね。
連コメ失礼します
信玄が出張って来るまでは、北信濃への攻略を行い高梨氏と争っていたので城域の北側の防禦を強化したのでしょうネ。
葛尾城の搦め手の先にあるのが岩崎城という通説なのですが、岩崎城の詰め城が葛尾城というのが小生の持論です。
でなければ搦め手の途中数ヶ所も防禦の曲輪を作る必要など無いでしょう。続きの記事、期待しておりまする。
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