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唐沢山城⑤ ~ 流転の末の廃城

 唐沢山城の第5話です。

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 本郭には唐沢山神社が鎮座しています。

 1578年、上杉謙信が49歳の生涯に幕を閉じると、上杉家の勢力は関東から消滅し、佐野氏は「宇都宮・佐竹連合」に与して、北条氏に対抗します。

 しかし、1585年、豊臣秀吉が関白に就任したその年に、佐野家当主「佐野宗綱」は足利との領地争いで戦死してしまいます。

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 関東古戦録によると・・・
 
 佐野家では、佐野一族であり、当時豊臣秀吉の御伽衆となっていた佐野了伯へ当主就任の打診をしまた。

 佐野了伯は、秀吉に相談しましたが、「先祖代々の本領に戻れるのはよいが、佐野四千貫の小身では、北条、由良、長尾らの敵に囲まれて、昼夜苦しめられるのが関の山。上方にいれば本領程度の所領は与えてやろう。」と引き留められました。佐野了伯は上方にとどまることとしました。

 困った佐野家では、御家の安泰を図るため、これまで敵対していた北条氏より婿養子を迎えることとしました。

 佐野氏はこれ以降、北条氏の武力を背景に宇都宮氏や、壬生氏の領土を切り取っていきます。

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 本丸から一段さがった場所に「引局」があります。奥女中が詰めた場所とのことです。

 1590年、豊臣秀吉は、北条攻めを発令します。

 北条一門となった佐野家は当然、小田原城に籠ることとなりました。

 秀吉は、佐野了伯を呼び出し、「野州佐野の旧里へ赴き、旧臣を味方につけてみよ。」と申しつけます。

 佐野了伯は、「本領安堵のお墨付きを頂きたい。それを譜代の家臣に見せれば、彼らは味方に付きましょう」と願ったので、秀吉は証文を与えました。

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 引局から本丸を見上げました。

 佐野了伯が佐野に赴き、証文を見せると過半の家老が従いましたが、大貫越前守だけは従わず、唐沢山城に籠りました。佐野了伯は家臣らとこれを攻め落とし、領地を平定したため、秀吉は約束通り旧領を与えました。
 了伯は還俗して、佐野房綱と名乗りました。

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 引局から下っていくと「南城」の看板があります。看板を見て安心せず、必ず奥まで進みましょう。

 佐野房綱は、秀吉の家臣吉田氏の五男を養子に押しつけられ、1597年に隠居します。

 養子は、秀吉から一字を与えられ、佐野信吉を名乗ります。

 唐沢山城に現在の石垣が構築されたのは、佐野房綱と佐野信吉の時代であったと推察されます。

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 南城の奥の方に進んでいきます。

 佐野信吉は関ヶ原の戦いで、徳川家康につき、本領を安堵されます。

 佐野信吉は唐沢山城を居城としていましたが、徳川幕府より廃城を命じられます。

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 南城の先端からは関東一円が見渡せます。現在でも晴れた日には東京スカイツリーが見えるとのことです。

 佐野信吉がここから江戸城の火事を発見し、江戸城に駆け付けたところ、将軍の城を見下ろすとは何たることと叱責を浴び、唐沢山城の廃城が決まったとの伝説がありますが、平和の時代に対応して山城を廃止していく流れがあったことと思われます。

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 南城の石垣も見事ですので、見落とされぬよう・・・

 佐野信吉は、ふもとに春日城を築きはじめますが、完成を見ぬまま、1613年、領地を没収され、佐野家は断絶してしまいます。
 
 家康にとっては、秀吉と関係の強い佐野信吉が関東にいることが目ざわりだったのでしょう。

 佐野家の居城が春日城に移っていたため、唐沢山城は破壊をまぬがれました。

 今日、私たちがこうして唐沢山城の遺構を観察できるのも、様々な偶然が折り重なってのことなんですね。

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