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岩槻城② ~ 太田三楽斎の抵抗

 岩槻城の最終回です。

 岩槻城に関する史実であまり知られていないのは、武田信玄のお父さんがやってきたことではないでしょうか。

 一時は関東の4分の1に迫ろうかという広大な所領を誇った扇谷上杉氏ですが、小田原から北上する北条氏に領土を蚕食され、江戸城や岩槻城も失ってしまいます。扇谷上杉氏の所領は、川越城の周辺を残すのみとなり、扇谷上杉氏は甲斐の武田信虎(信玄のお父さん)に泣きつき、援軍を求めます。

 武田信虎は、大月から関東に侵入すると、長躯、岩槻城を攻め、これを奪取! 岩槻城を扇谷上杉氏へと戻したのでした。1524年の出来事でした。信虎かっこいい! 頼れる助っ人!ということで、扇谷上杉氏は娘を武田信玄へ嫁がせます。

 しかし、武田家臣団にとってこの遠征は大迷惑だったようです。この遠征で家臣団の所領が増えたわけではなく、逆に多大の遠征費用が家臣団の上にのしかかりました。家臣団の不満は信虎追放クーデターへとつながり、武田信玄政権が誕生するのでした。

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 イメージ図、「か」の方向から、小口と横矢を撮影しました。

 その後、岩槻城が注目を浴びるのは、1546年、大田道灌の曾孫にあたる「太田三楽斎資正」が城主となってからのことです。
 太田三楽斎は、関東管領家の一員として、小田原から北上する北条氏に抵抗を続けていました。
 関東管領上杉憲正が関東を捨て、越後へ逃げる事態のなかで、一時的に北条家に忍従しますが、1560年、上杉謙信が関東管領を帯同して、関東に出兵するとこれに応じ、兵を挙げます。
 太田三楽斎は、松山城を奪取するなど八面六臂の活躍で、北条氏に抵抗します。

 しかし、上杉謙信の関東での勢力は次第に衰退してしまいます。
 1564年、上杉謙信派の里見氏と太田三楽斎は、国府台で北条軍に大敗を喫してしまいます。
 岩槻城を守っていた、太田三楽斎の嫡子は実利を取り、北条氏に内通・・・
 太田三楽斎は、岩槻城から追放されてしまいました。
 その後、岩槻城は北条氏の城となりました。

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 やがて、豊臣秀吉が全国制覇に王手をかけ、北条氏に圧力をかけます。

 北条氏は秀吉軍の侵攻に備え、岩槻城を大増築します。

 そのときに造られたのが、この「新曲輪」と「鍛冶曲輪」であるトノコトデス。

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 この図面で、岩槻城全体の中の、残存遺構の場所が確認できます。

 図、中央、やや右側、赤に白抜きで「現在位置」とされている部分です。

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 イメージ図で、「鍛冶郭」に池が食い込んでいますが、その食い込んでいる部分だけ池があります。

fe 046

 手前が「い」の土塁、奥が「新曲輪」の土塁です。

fe 050

 土塁と土塁の間に入ってみました。

 fe 061

 豊臣秀吉は、北条氏を滅ぼすと、関東に徳川家康を配置します。

 岩槻城には、青山氏、阿部氏、大岡氏等、徳川譜代衆が入り、廃藩置県まで存続したトノコトデス。

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