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岩槻城① ~ 太田道灌本格築城

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成22年12月某日に、岩槻城に行ってきました。

岩槻アク

 埼玉県岩槻市、岩槻市役所東方約800メートル、岩槻公園にあります。

fe 045

 岩槻城の中心部は、宅地化により完全に破壊されていますが、外郭部の一部が残存している模様です。

 図の手前側から、岩槻公園に入り、野球場を過ぎると、右側に駐車場があります。

 駐車場に車を停めて、周囲の散策を始めました・・・・

fe 041

 門の必要なさそうな場所に門があります。

fe 042

 現地解説版によると、版籍奉還により、岩槻城が廃城となった際に、撤去され、昭和45年にこの場所へ移築されたトノコトデス。

 さて、岩槻城の歴史について、「北武蔵を駆け抜けた武将たち」の記述をもとにお伝えします。

 室町期、鎌倉公方と関東管領が対立しました。関東管領は中央政府のバックアップを受け、鎌倉公方足利持氏を自刃させ、公方家は没落・・・ しかし、1440年、結城氏が持氏の子を奉じて挙兵します。いわゆる結城合戦です。
 この際、岩槻から関東管領軍が出陣したとの記録があるとのことです。結城は1年間の篭城の末、落城し、持氏の子は殺されますが、末子の成氏だけが逃れます。

 その後、成氏は鎌倉公方に取り立てられますが、彼は、父親と兄たちを殺した関東管領への恨みを忘れていませんでした。

成氏は関東管領を殺し、因縁は再燃、荒川(現在の荒川とは流路が違います)を隔てて、西が関東管領、東が古河公方(鎌倉から古河にウツッタッタメ呼び方が変わりました)の領分となり、抗争を繰り返します。

 そこで、関東管領を支える、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、荒川の西岸の最前線に位置する岩槻城を大修築、大増築したのでした、1457年から、1465年のことです。

fe_20110115174655.jpg

 私が確認できた遺構をイメージ図にしました。

 往時は沼に囲まれていましたが、今は沼はありません。

fe 054

 「う」の角馬出しと、新曲輪の間の堀です。

 「う」の角馬出し外側の掘りも残っていますが、藪で写真栄えしなかったので、掲載は見合わせます。

fe 056

 「え」の角馬出し(ここも残っています)から「お」の郭への土橋です。

fe 058

 「お」の郭は土塁に囲まれています。

 fe 059

 「お」の郭には城址碑が・・・

 岩槻城の別名は、白鶴城だったようです。

 その後、関東管領山内上杉家の、家宰の嫡男でありながら要職から遠ざけられた長尾景春が反乱を起こし、古河公方と共同戦線を張ります。関東管領家中からも豊島氏などが、同調し、関東管領家は絶体絶命のピンチを迎えます。
 そのピンチを救ったのが大田道灌でした、反乱軍を各個撃破し、ほぼ鎮圧に成功します。本来なら救世主としてあがめられるべき大田道灌でしたが、反乱軍の所領を自分のフトコロに入れてしまったため、主人の扇谷上杉氏は、道灌を謀殺してしまいました。

 太田三楽斎の抵抗へ続く・・・

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