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沼須城 ~ 藤田信吉居城

 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成22年10月16日、沼須城に行ってきました。

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 群馬県沼田市上沼須町にあります。
 沼田市役所から、県道62号で河岸段丘を下ると、「上沼須交差点」のすぐ西・・・

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「上沼須バス停」の目の前です。

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 沼須城は藤田信吉の城です。

 藤田信吉をご存じの方は、相当の戦国通ですね。
 関東管領上杉憲正の重臣藤田家の次男に産まれながら、北条氏康、武田勝頼、上杉景勝、徳川家康のもとを渡り歩いた流浪の武将です。

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 東と南側には、堀跡とおぼしき窪みがあります。

  藤田信吉は、北条の武将として沼田城を守っていました。上杉謙信亡きあと、家督を巡り、上杉景勝と上杉景虎が争いますが、景虎は負死、景虎を支援していた北条氏も旗色が悪くなります。

 勝った上杉景勝は武田勝頼に東上州の割譲を約した為、勝頼は真田昌幸に沼田の奪取を命じます。真田昌幸は小川可遊齊を味方に引き入れ、支城を次々と奪取し、沼田城を裸にした上で、藤田信吉へ味方につくよう誘います。

 藤田信吉は、藤田家を北条氏邦に乗っ取られ、更に兄を毒殺された為、北条家に属し続けることに不安を感じ、1580年5月、真田昌幸の誘いに乗り、沼田城を明け渡します。

 このとき藤田信吉が沼田城から移ったのが、沼須城でした。

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 イメージ図を作成しました。

 遺構の残存度は著しく低いので、古図面と現状の地形から妄想しました。

 藤田信吉は考えました。「沼田城は東側への展望がきかない弱点がある。私の寝返りに怒った北条は、必ず東側から攻め寄せる。東側に展望がきく拠点が必要だ。北条はすぐにでも押し寄せるだろう。本格的な築城をしている暇は無い。」

 沼田城の守りは、第一線が片品川と利根川、第二線が両川の河岸段丘でした。丁度、片品川の河岸段丘を沼田城方面に登る道を押さえる場所に、名刹の金剛院がありました。寺院ですから、削平はしてあるし、建物もあります。

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 お堂の北側には公民館が建っています。このアタリに平時の屋敷があったのではないでしょうか。

 藤田信吉は金剛院に他所へ移って頂き、その場所を接収し、城としたのでした。周囲を軽く堀で囲む程度の普請はしたのかも知れません。

 藤田信吉の妻子は沼須城に暮らしたとのことです。藤田信吉が真田昌幸に降ったのなら、信吉の妻は人質として沼田城に置かれるはずです。それがなかったのですから、藤田信吉は、真田と対等な関係であったことが判ります。

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 西側の段郭? ユンボが入っているので、往時のものかは・・・

 1582年3月、武田家は滅びますが、真田は織田家に仕え、生き延びます。藤田信吉はこの時、織田の関東方面総指揮官・滝川一益とトラブルが生じ、(諸説あます)越後の上杉景勝を頼り、こ地を去ります。
 同年6月、本能寺の変が起きると、滝川一益も西国へ戻ります。沼田はこれまでトオリ真田が所有するところとなりました。

 同年10月、早くも北条は大軍を発し、長井坂城に着陣します。沼須城の東には片品川が流れ、更に東の崖上には真田方の阿曾城がありました。

 北条氏邦は、阿曾城に夜襲をかけました。阿曾城は落城し、阿曾城代の金子家清は、崖を駆け降り、片品川を渡り、命からがら沼須城に入りました。

「北条軍来る」の報は、沼須城から沼田城に届けられ、防備をいち早く固めた真田方は、沼田城を死守できました。

 藤田信吉の慧眼が光るエピソードです。

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 東側から遠望しました。

 手前にも河岸段丘があり、段丘と段丘に挟まれた特異な選地であることが解ります。

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 > 「群馬の城」
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