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愛知県長篠城①~ 家康の婿、五百で籠る

 みなさん、こんにちは。
 中世城郭愛好家、土の城派、武蔵の五遁です。
 平成21年6月20日には、長篠城へ行ってきました。


 長篠城は、愛知県新城市、長篠にあります。
 歴史の教科書に載っている「長篠の戦い」の契機となった城です。

 

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      本丸の北側の弾正郭を外側から見ました。石塁があります。

 

 日本城郭全集によりますと、長篠城の創始は、1508年、今川家の家臣、菅沼元成によるそうです。

 

 1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られえると、配下の徳川家康は、今川家から自立しました。長篠城は、程なく家康の配下となりました。

 

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 表示があったので郭の中へ入ろうと思いましたが、民家が建っていた為、遠慮いたしました。

 

 1572年、武田信玄が西上の軍を発すると三河北部の武将はなだれを打って、その傘下に馳せ参じ、長篠城も信玄の手に落ちました。

 

 しかし、翌年、信玄が没し、甲斐へ撤兵すると、家康は長篠城を奪回します。

 

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 弾正郭は、本丸の北側です。本丸との間には川が流れていて、天然の堀となっています。

 

 徳川家康は、長篠城へ奥平貞昌を入れました。

 奥平貞昌は、武田からと徳川へと寝返った男でした。

 家康は、その奥平貞昌に長女亀姫を娶らせ、500の兵と大量の鉄砲を与えたのでした。

 

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            ふくべ郭です。遺構は残っていません。

 

 1575年5月8日、武田勝頼は裏切り者、奥平貞昌を誅し、三河を席巻すべく、1万五千の兵で、長篠城を囲みます。

 

 「三州長篠合戦記」によりますと、13日には、このふくべ郭へ、武田勢が攻めかかるも城兵の守りは堅く、武田は800の死傷者を出して撤退した。

 奥平貞昌は、意図的に戦線を縮小する作戦に出て、13日の夜半にふくべ郭を放棄したとされます。

 

 別の記録では、13日に武田勢が、ふくべ郭を攻め落とした、ふくべ郭には兵糧庫があったため、奥平勢は食料に窮したとあります。

 

 イメージ図をご覧頂ければわかりますが、ふくべ郭は、裏山に敵が入った段階で、防御不能となる構造ですので、ここに兵糧庫を置いたとは信じられません。

 

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 ふくべ郭から西へ進むと、写真右手に本丸の土塁が見えてきました。

 

 道の先に何かあるようです。行ってみましょう!

 

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   古城跡踏切です。この踏み切りはナント! お話が出来るんです!

 

   皆さん是非、この場に立って、お確かめ下さい。

 

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          踏み切りの先には、野牛郭があります。

 

        豊川と宇連川の合流地点の突端に位置します。

 

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        野牛郭から下っていくと、合流地点に到達します。

 

 断崖の厳しさに、長篠城が、いかに要害の地であったかを、感じることが出来ます。

 

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 川から敵兵が攻め寄せてこないか、監視するやぐら台の上で一服されるMさんです。

 

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               豊川です。右が長篠城・・・

 

 三州長篠合戦記によると、武田勢がいかだを組んで攻め寄せましたが、城兵の守りは堅く、撤退したとのことです。写真手前アタリで攻防が展開されたことでしょう。

 

 奥平貞昌の篭城は続く・・・

 

 ホームページ「土の城への衝動」 http://www5.plala.or.jp/tutinosiro/

 

 

 

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